多くの人がいれば考えが違うのは当たり前で
むしろ何かに集約される方が異常なのかもしれない
でも、人は時としてその多数の中にいることで
安心する生き物なのかも知れない(特に日本人は)
ある陣営からすれば、どう考えたらそうなるのか?
という数字がある
それは内閣支持率とその支持の理由
少し低下傾向があるが高市首相の支持率はまだまだ高い
その数字自体も、媒体によって傾向があるので
全面的に信じることはできないとしても
おおよその傾向は知ることができる
だが支持する理由の一番に、「首相の人柄が信頼できるから」
とあったのは、悪い冗談ではないかと目を疑った
総裁選、衆議院選挙時における中傷動画の疑い
昭和100年祭の天皇臨席時の度を越した振る舞い
トランプ大統領訪問時のハグ、ダンス、冷笑
これらは信頼できる人柄とは全く距離がある
いったい何を見ていれば信頼できる人柄と判断するのだろうか
高市首相アンチから見ればそう思う
だが、この現実は反面そんなものかも知れないとも思う
世論調査に答えた人は、無邪気に支持しますか?
支持する理由は何ですか?に答えただけで
アンチが指摘する高市首相の具体的な行動や問題点を
知っている訳ではないのだ
この傾向はハンナ・アーレントの「全体主義の起源」でも
無関心な大衆が、無関心であることで政治体制を保っている
と指摘したことを現しているようだ
つまり分断された考えの、討論に寄る良し悪しによるものではなく
無関心層の漠然とした無意識の直感とか条件反射のようなもので
決まってしまうということだ
それは数として少なくないので、それは良いことではないが
社会の空気のみならず、制度までつくってしまう状況になる
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」では目立たないが
モッブという存在が大きな役割を果たしているとされている
モッブは日本語訳は暴徒となるが、暴走する連中のことだ
(今ならネトウヨがそうかも知れないと思う)
植民地に出かけ、そこで良からぬことをしたのは自国で
爪弾きにされた連中だった
こんな連中は数は多くない、、と思いきや
いつの間にか多数を占めるようになった(暴力も含めて)
過去の日本でも天皇機関説事件に関わる右翼の連中が
モッブに値するように思う
そしてこのモッブの一人蓑田 胸喜(みのだ むねき)は
暴走して美濃部達吉を攻撃しまくったが
敗戦時に自らの命を断つことになった
世の中は明晰な事実の相関関係で動いていくのではなく
むしろ訳がわからないことで、まるで魔が差したという状況に
なりうるものだというのが現実のようだ
この誰か良くわからないが、攻撃的(悪口)のために
利益を受けている集団が現在も少なからずいる
SNSとか動画では個人攻撃(否定的な)が一気に再生回数を稼ぐ
これは儲かる儲からないの判断でなされることが多いが
明らかに儲けるためにはきつい攻撃的な言葉の使用が
良いとされるようだ
話は変わって、中道改革連合のクラウドファンディングについては
肯定的な動画の再生回数は、そんなものだろうな!
という数字に収まっている
ところが、それを貶す方はその何倍も多い再生回数を記録している
そしてそこにあるコメントも、使い古された言い回しがいくつも並ぶ
お金を儲ける為に、SNSで激しい批判的な言葉を並べる人達がいる
と同時に、自身には何のメリットもないが、自らの財布の中から
寄付をしようとする人たちもいる
この違いは何だろう
人はお金の儲け方でなく、使い方で判断されるのではないだろうか
食べ物にお金を使う人、衣服に使う人、旅行に使う人、エンタメに使う人
寄付に使う人
最後の寄付に使う人たちの心情は、きっと寄付した人びとの中では
同じ様な共感に溢れているのではないかと思う
実際に中道改革連合の寄付時のコメント欄には似たような
メッセージが溢れているようだ
彼らは自分と自分と思いを同じくする仲間がいることを実感する
だから別の動画で罵倒されようが、そんな人ばかりではないと
自らの体験から確信をもつことができる
仲間がいる
こうした実感は、否定的な罵倒は意味をなさない
(問題は、無関心層はどう思うかだが)
少し前までは、人が理解し合うためには丁寧な議論をすれば
良いと思っていた
ところが最近は、分断した同士は討論は成り立たないかもしれない
と思えるようになった
(それでも三島由紀夫が全学連に向かって「諸君たちの熱情は信じる」
といった境地にはなれるかも知れない)
分断があっても、現実世界ではこのように応援している人がいる
という事実を示すグラフを以下に示す
中道改革連合の最近の寄付金額とサポーターの数を現したものだ

棒グラフは金額の推移、折れ線グラフはサポーター数の推移
さて、この数字を見て人はどう感じるのだろう?