パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

身につけるには時間がかかる

昨日紹介した中野剛志さんの動画の中にメモしておいた部分がある
それは学習の中で、きちんと学習されていれば
批判の仕方、議論の仕方、批判の受け方、批判の避け方を
身につけることができると話した部分

最近の風潮の中で一番違和感を持つのは批判という行為に対して
嫌悪感を持つほどの扱い方がなされていること
批判されたほうがまるで人格否定のような捉え方をするものだから
その先の議論まで達しない

安易に論破といって片付け、決めつける
丁寧な事実認定を怠って自分の気に入る解釈を優先する
それは多様な意見という括りと表現の自由という言葉で正当化される

この一種分断に通じる傾向は、実は会話の技術論として共通の知識が無い
からではないのか?と最近思うようになった
中野氏は動画のなかで上記の技術を身につけるのには時間がかかるとしている
個人の中で自身の考えに疑いを持って反省してみたり
反論に対してしっかり向かい合ったり、それでも尚自身の考えを譲らなかったり
つまりはそうした幾多の経験を踏んで、議論とか会話がなり立つのだが
(こうなるには時間がかかるとされている)
今は思いつきのような考えが、そのわかりやすさのせいで一般受けするそれが真実
と思い込むようになっている
それは単なる訓練不足と言ってしまうと
そう判断する人は上から目線という言葉で毛嫌いされそうだ

人は何を信じるか?その基本は何か?と考えてみると
当たり前のことだが自身の経験に基づく
その経験の深さは人によって変わるので、同じものに直面しても
その対応の仕方は人によって変わってくる
(例えば立花孝志氏の言動に否定的な考えを持つか否かは
 彼に対する情報量の差と思えるー立花氏は執行猶予中の身であることなど)

つまりは多様な意見と安易にまとめるのは良くないと思われる
多様な意見はずべて同じ重みを持つものではなくて
それらには大事に扱うべきものと、無視して進めるほうがいい場合が存在して
それも上手く使って議論するというのが人の知恵となっているのが
その方法論としての技術の獲得がなされていないので、感情に任せた分断が
起きているのではないか、、と思ったりする

例の如くまとまらない話だが、要は人と会話する(議論)するには
その方法論を訓練した者同士でないと会話は成り立たないかもしれない
と想像したということ