パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

昔、「複雑系」という言葉が流行った

何年か前に「複雑系」という言葉が流行った
物事は複雑な要素が絡み合って、単純な因果関係で説明できるものではない
という考え方だ
一斉風靡した考え方だが、今は全く耳にしない
それどころか昨今流行りののSNSの短く、わかりやすく、断定的にとする
方針とは真反対のため面倒臭いものは嫌われる

でもへそ曲がりは、世間では断定的に当たり前となっていることに
疑問を感じることがある
そんなに簡単に決めつけて良いのか?と
例えば、なぜ、共産主義は嫌われるのか?
いったい人びとは何が気に入らないのか?


これを考える為に、とりあえずマルクスの主張を理解してみよう
と考える
そしてその手の本を読む
すると、あながち否定的なことばかりではないことに驚く

マルクスではないがレーニンの「帝国主義論」などは
単なる決済機関だった銀行が潤沢なお金を持つことになると
お金の出入りは物理的なものよりも簡単に移動できるので
お金による支配という形になりやすい

日本でも企業は結局は金融機関へと業態を変えそうだ
ソニーも家電製造から保険会社機能をもったり
ソフトバンクも証券会社の部門もあり
農協の稼ぎ頭はどうやら金融部門らしいし
つまりは、お金を扱うことが一番効率よく儲かりそうだ
ということだ
そしてその業態が社会の支配的な存在となる
(企業の政治献金という形も現れる)

もう一つ印象的な概念に、どんな商品(価格)には
労働というものが含まれているとされる考え方
その労働を担う人びとが搾取されているのではないか?
とするのは、一方的に否定できるものではないと思える

結局のところ、マルクスが共産主義を提案した理由とか
心意気は理解不可能のことではない
(資本論の多くのページは虐げられている人への怒りに満ちているらしい)
ただ、ここのところは頭でっかちになりすぎていないか
と思えるようなこともあるくらいだ

物事は簡単であることがわかった気になれるが、年齢を重ねると
そう簡単でないことや、複雑であることが事実であることがわかる
そうなるとコスパのために、わかりやすく理解するということは
良くないのではないだろうか

混乱した概念の海(複雑系)を溺れないように彷徨う
これは考えようによっては、面白いことだと思う

まとまらない話





身体の一部を表す漢字に月偏が使われているのは何故か?

中日新聞に時々、漢字のクイズが掲載される
解こうとしても、漢字が書けなくなったなあ、、
と思い知らされる毎日が続くが
そんな会話をしてると不意に
なぜだろう?と頭に浮かんだことがあった
それは、漢字では体の一部を表すものに月編が多いのは何故か?
という疑問

そこで横着して生成AI に聞いてみた
すると月に見えるのは月ではなくて、元々は肉を現していたものが
徐々に変化して月の字のようになったらしい
肉なら体の一部を現しても違和感はない

生成AIは間違うこともあるので確認するように!
と最近は答えの最後に出てくる
そこで別の生成AIに同じ問いをしてみた
すると答えは同じだった

たったこれだけのことだが、気持ちがスッキリした
何か疑問を持って、それがクリアされるというのは
なかなか良いもんだ



フルトヴェングラーの魔力に満ちた演奏

今日は土曜日、少しばかりお気軽な話題

得意とする分野とか作曲家ではないが
それでもフルトヴェングラーの凄さがわかる演奏がある
まずは彼の作品はブルーノ・ワルターに任せたと口にした
グスタフ・マーラーの曲で「さすらう若人の歌」


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高校の時、レコードでこれを聴いた時
「あ、鈴の音」と母がつぶやいたのを覚えている
まとわりつくようなオーケストラの伴奏と深々とした呼吸
そして音色
バーンスタインよりもワルターのよりも圧倒的にこの演奏が好きだ

次も守備範囲とは違う音楽で「モルダウ」


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最初のフルートの掛け合いから普通の演奏とは違う感じだ
フルート同士が会話をしているかのよう
それはテンポがゆっくりしているだけではない
そしてあの有名なメロディが奏される時には憧れに似た感情を呼び起こす
なぜ、この演奏だけがそんな気になるのか不思議だ

そして次の演奏(リハーサル風景)を見た時、人は何かを感じられるだろうか


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まるで何かに突き動かされているような、憑依されれいるような
そしてオーケストラも一心不乱にリハーサルということを
忘れているような演奏
これは見る度に「凄い」と声が出る

と3曲の例をあげたが、(我慢して)聴いてみて
自分と同じ様な感じた人はいるのだろうか

自分が感じたことは、一般化できない個人的なものなのか
それとも、何故かそう感じてしまえるような普遍的なものなのか
どっちなんだろうと思う

でも時代と、世代とか今流れている空気は
古臭いと感じるだけなのだろうか

この音楽に惹かれたという人とは、
飽きるまで言葉を交わしてみたい!と思ったりする


自身との対話が大事

小市民でも、少し長く生きているとそれなりの知恵を得る
その1つは「世の中はそんなに簡単に行かない」という実感だ
簡単に行かないどころか、まるで運命は意地悪をしている
かのような仕打ちをすることさえある
特に若い時には理詰めで理想的に求めるので
それが実現されないことは理不尽で、苛立ちを覚えたりする

でも経験を重ねると、上手く行かないことのほうが普通なことと
わかってくる
たまに上手く行っている状態になると、今度は
「こんなに上手くいくはずがない」とつい疑ってしまう
そして若干のトラブルとか課題が起きたほうが安心する
「やっと、普通の状態になった」と

一度挫折して、それを努力して乗り越える
それはハリウッド映画のようなサクセスストーリーだが
短期でその様になるのは例外的なことしかありえない
大半は、その努力は報われないで終わる
でも苦労していた時に個人の中に蓄積された何かは
確かに個人の宝となる

若い一時期、天狗になっていた時期があった
自信過剰で直ぐに何かを決めつけ、それが正しいことだと
信じて疑わなかった
でもある時、こっぴどく鼻を折られた
まるで生き方自体が全否定されるような
それこそ何でこんなことになったのか?
と怒りさえ覚えるようなことが起きた

でも今は、その時期があったことは良かったと思っている
あのままだと自分はダメな人間のままだと思う
そして起きるべくして起きたことに運の良さを
感じるまでになれた

その出来事は、まるで新しく生まれた自己とか
眠っていたものが目覚めたというような気分になって
今はその時からの年齢が自分の本当の年齢のような気さえしている
(それはジークフリートが恐れを知った出来事の様に思える)

きっとどんな人も少なからずこうした経験をしている
のではないだろうか(シュトルム・ウント・ドラング?)
それは個人の中にだけ存在する大切なものとして

個人との対話とか自身で考える、感じるということが
今は効率が悪いとされていないだろうか
評論家と称される人間の曖昧な情報からの解説
(特に最近の中道に関する情報やSNS)を聞いて
わかった気になる
そして決めつける

でも理解の一番の方法は当事者に直に接してみるということだと思う
直接会えないとしても、自ら一次資料に当たる
そして自身で何かを感じる
それこそが解説よりも大事な知恵ではないだろうか

「岡目八目」という囲碁の言葉がある
当事者よりも客観的に見ている岡目の方が8目得になる手を
見つけているという意味の言葉だが、囲碁対局の解説者は
「対局者はもっと深いところを読んでいるに違いない
 それは対局している2人しかわからない世界」
とまるっきり反対の意味の言葉も発する
自分は恐らく、後者の方が正しいと思う

当事者と傍観者
傍観者の無責任な言葉が世の中を動かしつつある
と思うのが今の政治の世界

人はいろんなことを、もう少し我が事として考える想像力が
必要だと思えてならない

抽象的なまとまらない話

新学期のあいさつ推進運動スタート

今日は新学期になって最初の木曜日
近所の小学生との校門までのウォーキングの始まりだ
早速、彼らは個性を発揮し始めた
「あ、忘れ物した」
そうつぶやいたのは、3年生のIちゃん
彼女は走って家に戻る

らしいな、、と思う
お兄ちゃんも忘れ物が多かった
だから「忘れ物ない?」と聞くのだが
「大丈夫」とあっさり答える
でも、やはり「忘れ物してた」と家に戻ることが何度もあった

「遅れないでよ!」
と振り返って声を出したのは、通学団の班長のAちゃん
列が、おしゃべりに夢中になって長くなっている
しっかり者の女の子の班長さんのこうした姿は
どこかハリー・ポッターのハーマイオニーの姿に似ている
というか、自分が子供の時面倒くさいな、、と思えた
同級生の女の子を思い出す
女の子は、、いつの時代もこんな感じなんだなと思う

校門までにIちゃんは、間に合うと良いなと思いつつ
今度はブラジルがルーツのIくんとおしゃべりする
夏休みは何してた
「家でゲームばっかりしてた」
「どんなゲーム?」
「〇〇とか△△とか」
そんな質問をしたのは間違いだった
今のゲームなどは知らないのだから

走って間に合ったIちゃん
「何忘れたの?」
「これ、重たいやつ」
受けとると子どもには少し重いのかも
「習字道具?」
「そう」

こんな風にまたのんびりした日々が始まる
子どもは少しづつ大きくなっていく
無邪気にとんでも無いお話をしていた子も
徐々に自分ができていって、どこか個性が見えつつある
そして挨拶も恥ずかしく思うようになる

それでも子どもたちの一番可愛い時を見ることができるのは
とても精神衛生にいいことだと思う
時には親御さんに、親でも知らない道中のエピソードを
教えてあげると喜んでもらえる
それはご近所同士の良いコミュニケーションになる









 

「ビューティフル」という言葉への違和感

「おばあさん」の名前はキャサリン・デイワットと言った
アメリカ出身でパリに住んでいて、夫は化学者と教えてもらった
彼女はもしかしたら「おばあさん」ではなくて「おばさん」の方が
適切だったかもしれない
でも女性に年齢を聞くのは失礼ということで、勝手に「おばあさん」
と思うことにした(そのほうが失礼か?)

 

50年前の夏、音楽祭が開催されていた西ドイツの田舎町
バイロイトの駅に着いたのは夕方近くだった
客は数人だったと思うが、泊まるところもない僕とおばあさんは
何故か2人で駅のインフォメーションで宿屋を探すことにした
数分後に、普通の家だが音楽祭の時期だけ部屋を貸している物件を紹介された
どういう経緯だったかは覚えていないが、全くの他人だったおばあさんと僕は
一緒の部屋に泊まることになった

おばあさんだからこそ出来た判断だったかもしれない
それに自分は安全パイといった雰囲気を醸し出していたのだろうか

ベッドは二つあって、それは適度に離れていた
何日か一緒に寝泊まりしたが、おばあさんは
「今から着替えをするから、少しの間部屋から出ていって」
と言って、僕は素直に部屋の外で待っていたようなことがあった

夏のバイロイトはワーグナーの作品だけ上演される音楽祭がある
その年は音楽祭100周年の記念の年で、ニーベルングの指環は
フランス人の演出家シェロー、フランス人の指揮者ブーレーズのコンビだった
でも背広を着たヴォータン、飲み屋の店員のようなラインの乙女のぶっ飛んだ
解釈の演出は賛否両論でバイロイトもどこか異様な雰囲気があった

泊まる場所は出来たがあばあさんは音楽祭のチケットは持っていなかった
そこで祝祭歌劇場の周りに陣取って「Suche Karte」と書いた紙を手に持って
チケットを分けてくれる人を探した
同じ様な行動をする人は少なくなかった
中には東ヨーロッパ出身の人もいた

さほど時間が経たないうちに年配の男性がおばあさんに声をかけてきた
指環の通しのチケット〇〇マルクであるが、どうするか?
と聞いていきた
おばあさんは迷わずそれを購入することにした
チケットはに2人分あったので自分も、もう一生こんな機会はない
と思い一緒に購入することにした

でも指環以外の演目のチケットはない
だからおばあさんは、まだまだチケット探しを頑張った
すると今度は「トリスタンとイゾルデ」のチケットを持った人が
おばあさんに声をかけてきた
おばあさんはまたしても迷うことなく購入した
チケットを分けてくれたひとは
「あなたはまだこれから何回も見聞きする機会があるかも知れないけど
おばあさんは、そんなにないのでおばあさんを優先した」
と言い訳がましく伝えてきた
でも、こちらはお金がないので購入は出来なかったのだが

おばあさんがクライバー指揮の「トリスタンとイゾルデ」を聞いたあと
僕はおばあさんに感想を聞いた
その言葉を今も覚えている
それは「ビューティフル」だった

何か拍子抜けの言葉だった
「ビューティフル」なんて日本語にすれば、その時は「きれい」
くらいの意味で、音楽を聴いた後の感想としてはあまりにも軽い
と思われたのだった
「エモーショナル」とか「エキサイティング」とかそうした言葉の方が
良いのではないのか?と思ったものだった

長い時間をおいても何故か覚えているのは、その時使われた
「ビューティフル」という言葉への違和感で
もしかしたら英語がネイティブの人は何ら違和感を覚えない言葉
なのかもしれない!と今は思うようになった

今になって、こんなことを思い出したのは
現在トランプ大統領がXで投稿する内容が日本語翻訳ではかなり酷い
と思われるのだが、ネイティブの人は「そんなもの」くらいの
認識なのだろうかと思えたからだ

でも、どうも必ずしもそうではないらしく
ネイティブの人にとってもかなり酷いというか
幼稚との印象を持つものらしい

それにしても記憶というものは、本当にどうでもいいこと(?)を
覚えているものだ

おばあさんとはその後、日中に行われている楽劇の解説講演を
一緒に聞きに行ったりした
今思うと、楽しい思い出だ

僕はぶっ飛んだ演出の指環はのチケットは結局「トリスタンとイゾルデ」
「パルジファル」のチケットに交換してもらった
そしてそこで得た稀有な体験は、今も頭の中に残っている
(これは正常なのだろう)











情報の偏りと自己と向かい合うこと

タレントの小泉今日子さんは若い頃
あるSNSの政治的な内容に賛意の意味のボタンを押したところ
予想外のレスポンスに驚いたそうだ
大半が否定的で、タレントはそうしたものに口を挟まないほうが良い
とするものだったらしい
自分たちの様な仕事をするものはそういうものか?
と釈然としない思いを持ちながら、長らくそうしていたそうだ

ところがある時、自分よりも年下の政治家が「今より良くしたい」
という熱い思いをもって、のたうち回っているのを知った
「人生の8割は我慢、残りの1割は辛抱、最後の1割は忍耐」
それは彼の経験から出た言葉で、傍から見ればしなくても良い苦労を
あえてしているかのような生き方をしていた

でもその思いは周りの人に少しづつ伝染していった
まずは彼の故郷から動き始めた
政治家は任せてなんぼ!という扱いが多いかも知れないが
彼の特徴である人間の善性を信じ、鼓舞する対話は次第に
聞き手自身も何か手伝えるものは無いかと考えるようになった
そしてケネディーの演説
「国があなたのために何ができるかを問うのではなく、
 あなたが国のために何ができるかを問いてほしい」
他人任せではなく、自分でできることを探す人が増えていった

小泉今日子さんは彼を知ったことがキッカケで、今では
年齢を重ねた人間にはそれなりの責任があって
それは果たさないといけない(?)と考えるようになったらしい
(と自身は解釈している)

ところでいきなり話は変わるが、地方自治体ではいろんな不祥事が起きている
首長選まで行ったことも少なくない
でも有権者は首長は知っていてもその対抗馬となる人物
(例えば議員とか職員)は、ほとんど知らないのではないだろうか
首長は自治体のイベント、行事、広報誌など、色んな場面に登場する
でも同じ選挙で選ばれた議員の名前と仕事ぶりは多分知らない
議員だけでなく実務を担い、地域住民に説明を果たす職員の仕事ぶり
などは全く知らないのではないだろうか
法的な説明はある程度誰が行っても同じ様なものかも知れないが
それを説明する時の態度とか言い方などは語る人の人間性がでてくる
市議会でも幹部職員が人間性がしっかりしていると安心感を覚えるものだ
そして説明が機械的とか感情を伴わないものである場合は
どこか不信感を覚えるのではないだろうか

国と地方自治体を比べるのは少し違いかも知れないが
実はどちらもあまり知らないところで
人は人を判断しているのではないだろうか
先日取りあげた支持率の問題
それらを判断すべき情報は、地方自治体では首長に偏っているように
国は政府に偏っていないだろうか

市議会議員の情報はあまりないのと同様に、野党の情報もあまりない
というより報道されないのではないだろうか
そして報道される時は、政局絡みの視点だけで語られるのではないだろうか
野党はまとまりがない、つまりは政権担当能力がない
やはり安心できるのは経験豊富な現政権と
知らず知らず思い込まされているのでは無いだろうか

でも批判的な視点から見れば、日本のここ最近の低迷(経済、報道自由度)
などの責任は、長いこと政権を担っている政党にあるはずだ
クールジャパンの大失敗、一方でエンタメで外貨を稼ぐという韓国の
同様な試みの大成功はいったい何が違ったのか
また半導体とかスマホ分野でも韓国の後ろを走っているのは企業だけの責任か

しかし現実は、無党派層を除いて政党は一強だ
共産党も社民党もれいわ(いのちの党)中道も立憲も公明党も
見るも無惨な姿になっている
そこで人が考えなくてはいけないのは「それは良いことか?」
という問いだ
(尤も自民党を応援する人びとは決断が早く
 迅速な施策実施は好ましいと思っているだろうが)

ある程度の多数を占めるということは独裁になりやすい
しかも多数決という一見公平そうな手続きを踏んで形を取ると
それに対する批判はできにくくなる

これは多数決の原理と言うより、多数派のいうことは正しいという
勘違いに結びつきそうだ(特に日本では)

かつて多数の声の大きさは1日で変わったことがあった
「鬼畜英米」と黒板に書かれた文字が、ある日を境に
「民主主義」と呆れるほど急に替わった
この変わり身の早さは一体何だったんだろう
そもそも戦争にしても、必敗は充分すぎるほど予想できた
でも「時には清水から飛び降りることも必要だ」
と他の意見を一蹴した
だが結果は被害の歴史と加害の歴史を味わうことになった

本当は戦争反対と心のなかでそう思っていた、、、
と、態度を変えた人は弁解するかも知れない
でもそれは後からの言い訳だ

今思うことは、多数決の暴走は防がなくてはならない
権力を担う人びとの人間性のチェックはちゃんとしなくてはならない
そのための情報は手に入れなければならないし
メディアはそれを報じなければならない

そしてついにはいつもと同じ結論に至る
「人は自分で色々考えて自分の考えを持たなければならない」
でも、ヘッセのデミアンには冒頭こう書かれている
「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きようと
欲したにすぎない。なぜそれはそんなに困難だったのか」

難しくても自分との対話は必要だと思う
今の時代にこそ!