パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

投票しなかった人の気持ちと、結果的に起こること

2015年の5月
新城市では新庁舎の規模に関する住民投票が行われた

直前に大阪で都構想の住民投票が行われて
住民投票が一種のブームになっていたことと
新城市の住民投票の選択肢がとんでもなく分かりにくいことで
マスコミの話題を集めて、投票率は53%と半分を超えた

結果は市民側の要求した縮小案がより多くの支持を受けたのだが
その後の記者会見だったか何かで市長は
「結果を踏まえて、なおかつ投票しなかった人たちの気持ちも考慮して
 計画について考えていく」と発言した

少し引っかかるものがあって今でも覚えているのは
「投票しなかった人の気持ち」で、一体それは分かるものだろうか?
と頭をひねることになったことだ

最近の国政選挙の投票率は相変わらず大したことはない
そこで考えたのは、投票しなかった人たちの思いは
どのように実現されているのだろうか?ということだ

投票しなかった理由は色々あるだろう
託す人がいないとか、誰がやっても同じだとか
そもそも人柄も政治もわからない、、などが挙げられそうだが
少し考えてみると、実は世の中できめられていくことは
投票しなかった人の意見などは明らかにされず
投票しなかった人の意志は、選挙結果の多数派に白紙委任
となっているのはないだろうか
そして、投票しなかった人たちは
それでいいと思っているのだろうか?
ということが気になる

議席数と支持する人びとの数が実態を反映していないのが
今の選挙制度だが、1つ確かなのは「多数決で決められる」という事実
日本では「多数決が民主主義」との信仰があるようで
この多数決は何故か「正しい」とさえされそうだ

多数決は正しい正しくないを決めるのではなく
単に覚悟の方向性を決めているだけに過ぎないのだが
今のアクション数の多さが正しさの証とするSNS空間とか
支持率をもって正しいことをしているとする
一部の人たちの言い分は
そしてそれがまかり通っている社会は
なにか違うと思えてならない

ハンナ・アーレントは全体主義の起源のなかでこう述べている

多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、
実際には少数者だけが支配している

民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈された

彼女のわかりにくい文章も、自身の経験が増えてくるにつれて
深刻な指摘だと思うようになってきた

投票しなかった人は、結果的に白紙委任になっている実態を
どのように思っているのだろう
これはそうした人への批判ではなく、ただどのような気持ちの
中で行われているのか気になったということ

まとまらない話








それなりの年齢の人の責任について

それなりの年令になっているので、それなりの問題意識はある
最近は不穏な雰囲気を感じるので、社会に関することが気になる
日常のありふれた、ささやかなことに楽しみ心を動かされることも
とても大事だと思うが、今の正直な気持ちは
それなりの年齢の人はそれなりの考えを持ってほしいという
ちょいとばかり上から目線のような思いだ

何故、彼はまるで意図しているかのように社会的な問題に
コメントしないのか?と思える人がいる
昔はツイッターでフォローしていた人だ
毎日更新してそれなりに面白かった(糸井さん)
しかし、その周辺ばかりに面白いことは、それだけでいいのか?
と一旦思うようになってからは、ほとんどスルーするようになった

話は変わるが日曜の中日新聞の関心あるコーナーは「視座」
今日は目加田説子さんだった
このなかで目に止まって印象に残ったのは、この段落だ

国家はどこまで権力を行使してよいのか
市民は何を黙認してはいけないのか
他者の痛みにどう対応するのか

ノーベル賞作家 ハン・ガンの作品からインスパイアされて
考察したフレーズだが、この問は今の自身の関心事にとても近い

特に2番目の、市民は何を黙認してはいけないのか
これは、一人ひとりが自分なりの答えを考えるようになったら
それだけで、何かが変わるかも知れないと思う

同じ光景を見ても全く反対の考えを持つことが目につくようになった
特に高市首相に関する報道に対して、大成功の外交と評価する人もいれば
真逆の評価をする人がいる
先日のサッカー日本代表各選手の評価についても、久保が一味違うレベルと
する人がいれば真逆の人もいる

ここで問題なのは、これらの思いとか意見、評価が本人の心から
でたものなのか?それともウケ狙い(結果的に何某かのお金が手に入る)
ためなのかが不明なことだ
そして多数派に属していると思うことで
自身に過度な自信と正義感を持つにいたっているように思えること
こうした傾向は、本当に恐ろしいと思えてならない

ということで、日曜の朝らしくないボヤキ
でも、何とかならないかな、、と強く思う
不意にデモで見かけた手書きの看板を思い出した
それは「正気に戻れ!」だった



 

効果的な本の読み方を知った

ようやく気温も少し下がって本を読む気にもなれている
当たり前のことだが、読んだ本より読んでいない本の方が多い
未読のものに挑戦する気は少しづつ失せている
年齢に伴う記憶力の低下と集中力の欠如が大きな原因だ

本は最初から読むもの、最後まで読んで意味があると思い込んで
意地になって最後のページまでたどり着いたことがあった
でも、そうした読み方は変えたほうが良いのかもしれない
と思うようになった

小説類は最初から読まないと訳がわからない事になりそうだが
別の分野の本は、少しばかり効率的な読み方があると何かで知った
それはまず目次を見て、興味のあリそうなところを読んでみるという方法だ

前提としての知識が頭に入っていないことへの不備はあるが
実はそれすらも(読んでも)曖昧な事が多いので
そのくらいは無視しても大して違いはないかも知れない

その様な読む方をしてみようかと思えた本が
最近どこかで目にしたアリストテレスの「ニコマコス倫理学」だ


本の紹介をみて面白そうと感じたのだが
10巻もあるこの本の目次は(と言うか内容のまとめは)
賢い彼の力を借りると、以下の様な構成になっているそうだ

第1巻 「人間にとって最高の善とは何か」

第2巻 「では、よく生きる人間になるにはどうするか」

第3巻 「人間は自分の行為にどこまで責任を負うのか」

第4巻 「具体的には、どんな徳があるのか」

第5巻 「正義とは何か」

第6巻 「正しく判断するには、どんな知性が必要か」

第7巻 「分かっているのに、なぜ人間は悪いことをしてしまうのか」

第8・9巻 「人間には、なぜ友人が必要なのか

第10巻 「快楽とは何か。そして幸福とは結局何なのか」

これなら、途中の気になった部分だけ抜き出して読むことができそうだ

さしあたっては
「人間は自分の行為にどこまで責任を負うのか」
「正しく判断するには、どんな知性が必要か」
「分かっているのに、なぜ人間は悪いことをしてしまうのか」
の分野が気になる

アマゾンでは「ニコマコス倫理学」は文庫本2冊に収まっている
文字大きさが小さすぎないか気になるが、
とりあえずトライしてみるか
(気になる部分だけ読むことにして)

 

昨日のXでの出来事

連休最終日、と言っても自身は毎日が日曜日だが
それでも連休があると曜日感覚がおかしくなる
月曜日の子どもたちとの校門までの付き添いが無いだけで
今日は何曜日だったかな?と思ったりする

時間がたっぷりあった昨日、全然知らない方とX上で
ちょいとばかり険悪になりそうな雰囲気の意見交換があった
全部で20回くらいの行ったり来たりだったが
キッカケは小川淳也さんを応援するポストに
自分が肯定的なコメントを入れた時に
ある方が、「映画を作って個人的なプロモーションに力を入れるのが
小川淳也という人物」と評価していたので
それはちょっと違うのではと反論したのが始まりだった

映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」は大島新さんが勝手に撮り
溜めていた素材を纏めたもので、小川さんが主体的に映画化したわけでない
そしてそれは彼のプロモーションが目的ではない
大島新さんの意図とか問題提起は、小川さんを持ち上げるのではなく
彼のようなクソ真面目な人間が、なぜ今の社会に認められないのか?
それは社会の方に問題があるのではないのか?
ということを考えてほしいとしている
(ここの受け取り方は、小川さんに共感を覚える人とそうでない人では
まるっきり違うのが現実だ)

少し小川さんの肩をもって説明してた
そしてその方がプロモーション映画と名付けた映画の公開前から
自身は国会の統計問題の質問から注目していたと伝えた

すると高市さんを支持するような人と小川さんを支持する人とは
統計問題のような些細なところとは違い、何をしてくれるかが関心事で
そこに答えていない(ざっくりこんな意味の)回答があった

大きな視点からすれば、小川さんの持論は今の人口構成と社会とが
合わなくなってきているから再構成すべきだとしていて、それに取り組んでいる
何もしていないように見えるのは、彼が政権をとっていないからで
現実的には野党としてはアピールする場がない

また先の臨時国会では補正予算案には、政府はほとんどが予備費という
何にでも使える形にしていたが、小川さんの陣営はお金の使い道を細かく
指定した予算組み換え案をだしていた
このことは知ってますかと聞いてみた

ここでこの予算案の組み換え案のことは、国民の多くが知っているかどうか?
が気になって、頼りになる相棒に聞いてみると、
具体的に国民のどのくらいが知っているかどうかはわからないが
報道から推論すれば知っている人は少ないだろうということだった

ついでに日本の予算委員会では、地方自治体でもそうだが
その年の予算案全部ひっくるめて政府案でいいか?否か?
を問う纏め法案になっている
イギリスでは内閣が提出する予算案を、一行ずつ丁寧に審議する制度があって
見習うところもあるのでは、と伝えたが、日本には日本のやり方がある
との返事だった

ところで地方自治体の議会の予算委員会は
傍聴したことのある人はわかると思うが、イギリス風の細かなチェックがはいる
昨年と比べて増えているが何故かとか、これは具体的に何に使うのか?とか
それらを細かく聞いた後で全体としての予算案に賛成できるか否かを議決する
そして市長提出の予算案に賛成できない場合は
国会と同じように組み換え予算案を議員提出する(これは野党組み換え案と似ている)
この組み換え案は我が市でも数年前、ある事業を省いた予算案が提出された

でもここからが問題なのだが、メディアはこうした案の詳細に踏み込まず
政府案に賛成か反対かだけの視点で物事を報じる
反対には反対の理由があるのだが、そこには踏み込まず賛成反対だけの
状態のみを伝える

だからこそメディアは、政府の御用機関となっているとの批判と
リベラルの言い分ばかり伝えているとする政権よりの不満が混在している
そこでこうした報道の姿勢が問題でないのかと伝えてみた

野党の仕事、あるいは国会の仕事は立法ではないか?
とあったが、国会の仕事には予算執行への議決があり
必然的にチェックすることも仕事のうちではないかと答えた

現実社会では中道の支持率は全く無い
そんなところを応援するのは騙されている(とまでは言わないが)
とのトーンの言葉には、確かに支持率は低い
だた、その低さの理由は選挙用に急に公明党と合体したことにある
小川さん自体も聞かされるまで知らなかった
だが結果として惨敗となった後、小川さんは惨敗の大きな要因は
党のアイデンティティが曖昧だったと分析し、代表になってからは
そのアイデンティを党員と会議を開き、方針として形を決めた
しかし、中道に関するメディア報道やSNS空間は
合流した時のイメージそのままで小川さんたちが
なそうとしたことを伝えなかった

今確認してみると、10回以上のポストの行ったり来たりだった
でもありがたかったのは、これが罵り合いにならなかったこと
最後にはお付き合いいただき感謝との言葉があって
こちらこそ!と討論を終えられたことだ

実は以前にも同じ様なことがあった
それは兵庫県知事選のドタバタの時で、自身は斎藤さんに批判的な
意見をポストしたら支持者から「そうではない」と反論があったのだ
その時も最終的には喧嘩にならず、お互いにそれぞれの立場を労った
その時その人から教えられたのは岡潔の「情緒」という言葉で
アマゾンで岡潔の本を購入したのだった

喧嘩を恐れて、相手の嫌がる意見を言わないでおこう
という気持ちはわかる
でもそれで良いのか?は少し疑問だ
自身が経験した二つの喧嘩で終わらなかった出来事は、
多くの人にも経験してほしいと思う

対話とか会話というのは、自説の正当性を相手にやり込めるのではなく
もしかしたら自分が違っているかも知れない!
と思うような気持ちで臨むべきだと思う

昨日の相手をしていただいた方も、自分とは違う視点だが
真面目に考えられている
そういう態度で臨めば、敵味方ばかりの世界から逃れられると思う



読書(小説など)の社会的有用性はなんだろう

人間の価値ある発明は農業と文字とする考えがある
確かに偶然の要素が多い狩猟よりは農業はある程度計算できるのが良い
また文字は記憶を残すことができたり、考えの共有に役立つ

文字の有効性はその後印刷の発明で更にその価値を高めた
そこでフト頭に浮かんだのは
本(小説などの)を読むことは個人の楽しみでもあるが
それ以外に社会にとって実用的なところはあるのだろうか?
という点

使い方やノウハウなどの記録に実用性は誰でもわかる
でも、物語を読んで役に立つことって、、、

こういう場合は沢山本を読んでいる人と読んでいない人を
比べてみればいいが、誰が沢山読んでいて
誰が読んでいない人かはわからない
だから比べることはできない
というものの、何となく多読の人とそうでない人は何となく分かる
この何となく!というのが不思議な感覚で
あながち間違いばかりでは無いことが多い

一般的に言われる読書の社会的な価値とか意味は
本を読むことで、人には個人の歴史に伴ういろんな価値観や感情があって
それぞれが切実なものなので安易に良い悪いの判断ができない
ということを理解できるようになるとされている

それは現代社会のSNS空間で見られる敵味方を安易に設定して
良し悪しの判断はその考え方に基づくものではなくて
敵か味方かで決まってしまう傾向があることへの対抗策となる

しかし、そうは理想的に行かないのが世の中で
多面的な価値を認め、両論が混在する社会はある程度仕方ない
とするネガティブ・ケイパビリティを受け入れる社会は
エリートの支配だ!と言い切って、エリート以外の人は
虐げられているとさえ言い切ってしまう人たちがいる

どうやらトランプ大統領の支持派は
民主党政治はエリートの支配そのものだとしているようだ
随分強引な決めつけのように思えるが
(トランプ大統領のやり方も結局支配層が儲かるようになっている)
それでもこの考え方は、気持ちにストンと落ちるのだろう

話は変わって今日の中日新聞に丸山眞男のことが書かれていた
彼の書いたものはある時期、集中して読んだことがあった
なかなか良い指摘や捉え方だと思うことが多かった
新聞にもその評価が紹介されていたが、一方で
西洋の近代思想を基準に日本の思想史を捉える手法に対する反発や
「権威主義的な知識人の側に立ったエリート主義」と言った批判も
多く浴びたとも書かれている

確かに、こう感じる人は今でも少なくないようで
ある知人も「本を読まない我々はエリートから置いてけぼりにされている」
とこぼしたことがあった
ならば読んで勉強すればいいのに、、と一瞬思ったが
それは対立を煽るだけのようだし
彼らの切実な気持ちを理解する気がない
とも思われるので言うのは止めた

ということで、相変わらず話が飛んでまとまらないが
小説などを読むことは、社会にとって何が有効なのかを
とちょいと思いを巡らしてみた

まとまらない話






ひとりの中に相反する人間がいる

少しでも自身を真面目に振り返ったことのある人は
自分の中に厭うべき感情があることを自覚する
欲望、憎しみ、嫉妬、狡さ、他人への軽蔑
みっともないが、それでもこれらがあってこそ
普通の人間であると言える

綺麗事を言うな!
という人々は「人間なんてこんなもの」
と自虐的に考えているのかもしれない
しかし、それでも!
と覚悟を決めて良きこと(綺麗事)を求める人もいる
(パンドラの箱をあけて最後に残ったのは希望だった
 とオチがあるのは救われる)

人間社会にはいろんなタイプの人がいるのと同時に
ひとりの中にいろんな面の人間がいる(いい人と悪い人)
つまりは人間は矛盾した存在で、あらゆることに首尾一貫
していることはない

ところが首尾一貫を徹底して求められる社会がある
それは政治の世界(というより政党のあり方か)
本来は人間はそれぞれバラバラの価値観を持っているが
とりあえず、あるイデオロギーで集まろうとする
そこにはある程度の妥協が必要になるのだが
外からはその妥協さえ許されないような雰囲気が蔓延する

確かに何らかのまとまりが無いと収集がつかないと思われる
しかし、それでもまとまろうとする時は、各個人の覚悟で
自分に言い聞かせて、自分を抑えてまとまろうとする

人生経験や洞察力のある(トップの)人は、そうした我慢する人
自身を抑える人の気持ちを理解できるので
強く言えない可能性がある
(その人はネガティブ・ケイパビリティに富んでいると思われる)

野党がまとまらないのは、こうした現実を踏まえず
言葉の上ではきれいな理想化した目標のみを価値あるもの
としている、非現実的な方法をとっているからではないだろうか

尤も政治家でもないし、そうした人びとをよく知っている
訳でもないのであくまでも想像の範囲だが

こんなことを考えていたら確か西部さんが良いことを言ってたぞ!
と思い出したことがあった
それはこんな内容だ

西部邁  マスコミ亡国論より

145ページから
人間という存在は何割かの性悪ぶり、何割かのいかがわしさをひめたものである。そのいかがわしさが他者あるいは社会に迷惑をかけるというのでないかぎり、そのいかがわしさについては互いに攻撃を仕掛け合うようなことは避けようというルールを欧米社会は作り出したのだ。
もしもその種の相互暴露、相互攻撃をやりはじめると、人間のいかがわしき可能性は人間関係の前面に露出してしまう。そんな状態では、安定した人間関係は取り結ぶわけがない。つまり、プライバシー権にあっては、いわば「大人の偽善」が前提されているわけである。
われわれはお互いいかがわしい存在にすぎないのだが、他人に迷惑をかけないかぎり、それを暴露し合うようなことはしないでおこう、これは偽善であるがしかし大人の作法である。
またそれを認め合わなければ、人間の主体性とか自由というものも空語に陥ってしまう。つまり人間という主体が他者との関係を結ぶときには、かりにも虚構だとしても、まあまあまっとうな自己であり他者であるようかのように認め合うという礼儀作法が必要になるのだ。

 

この文章を読むと最近のSNSの誹謗中傷、人格否定などの行き過ぎた状況を
ずっと前から予想していたかのように思える

この残しておいた文章がでていた本の別のページには、こんなのがあった

159ページから

日本人はデモクラシーという言葉を民主主義と訳した。私が思うに、デモクラシーと民主主義は必ずしも一致しないのである。デモクラシーとはデモス(民衆)のクラシー(支配)ということを意味するにすぎない。 つまりデモクラシーというのは、それだけでは、良いものとも悪いものとも判断されていない中立的な概念である。
さらにいえば。もしも民衆が賢明であるならデモクラシーから賢明な政治が出てくるであろうが、もしも民衆が愚昧ならばデモクラシーは愚昧な政治がもたらされるだろうということにすぎない。

つまりデモクラシーとは、社会的な意思決定の過程に多数者が参加し、その中の多数派でことを決める、という意思決定の一つの方式なのだ。その方式から真が出てくるか偽が出てくるか、善が出てくるか悪が出てくるか、美が出てくるか醜出てくるか、それは民衆の資質にかかわっている


彼が晩年に不安と焦りを覚えていたのは、わかる気がする

まとまりのない話






別の人が全く同じ質問をしたら、生成AIの回答は同じだろうか?

民主主義の意思決定手段である多数決は、
その正当性を保つにはいくつかの前提がある

議決権を有するものが利益相反の関係者ではないこと
判断基準となる情報の偏りがないこと
その選択肢に至るまでに十分な討論がなされたかなどなどで
多数決という方法の怪しさは既にコンドセルのパラドックスとか
アローの不可能性定理でも問われている
(これらを知ったのは、「理性の限界」高橋 昌一郎 著)

日本では民主主義イコール多数決と安易に思われているようだが
それは意思決定手段に過ぎず、正しい正しくいないの判断ではない
しかし、いつの間には多数であるほうが正しい
少ないほうは正しくないとの考えに至っているようなのが
昨今の社会に見える

安定しない社会は日本だけでなく何故か世界中もそうだ
そこで昨晩こんなことを生成AIに聞いてみた

世界中で権威主義、独裁主義から進行していますが
何か共通の理由があるのでしょうか
選挙をしていても実態は不公平だったりして

特に日本では多数決が過度に信用されている気がします
多数決の不完全さは他の方法を考えられていることら明らかですが、
日本はそうした方法論が教育されていないために数さえ取れば!
となっている気がします

これらの答えが返ってきたがそれ常々感じていたことだったので

ありがとうございます言いたかったことを代弁していただいた気分です
そこで、これらを乗り越えるためには何から始めると良いと思われますか

と続けて聞いてみた

数の暴走を問題視する回答があった後
このことにある程度気づいている人や社会に関心のある人はおっしゃる通りで徐々に熟議を重ねていけば良いと思いますが、反対に多数の正義感に凝り固まっている人はどの様な打開策があると思われますか

回答の後、続いて

フト思うのですが、こうした考え方なり方法論をメディアが啓蒙することなく
彼らは権力闘争を伝え勝ち負けによって正しい正しくないを伝えている気がします
メディアの報道を丁寧なものにするにはどうすべきと思われますか

現代社会では問題になるのが メディアもSNSお金になる意見や考え方に偏ることだと思います
さてこの問題はどう対処していきますか

こうした会話を夜中に行うと寝付きが悪くなりそうだが
幸い昨日はそんなことはなかった
そして目覚めた時にフト頭に浮かんだのは、
この問いを自分以外の人が全く同じ文章で行ったら
彼は生成AIは同じように答えるのだろうか?という疑問だ

彼からの回答文は、今まで何回か討論を交わした中で蓄積された
こちらの考え方とか、使われるエピソードとか、引用する人の人名
概念が使われている
生成AIは自分という個人を認識して答えているようにさえ思える
だからこそ同じ問いを別人がしたならば、いったいどう答えるのだろうか
今度はそれが気になった

ということで、時間と心に余裕のある方は
上記の青色のプロンプトをコピペして聞いてみると面白いかも
自分が知ることができないのは仕方ないが、
この問は聞いてみて損することはないと思う