パンセ(みたいなものを目指して)

長年付き合ってきたGooブログからの引っ越しです 思いついたこと、日記風なもの、年相応の社会的なもの、市政のこと、音楽、サッカー、つまりはごった煮の内容です

なぜ彼らは「天皇機関説」を憎んだのか?

先日購入した「天皇機関説事件」は中古本で、そのこと自体は知っていたが
中の所々にアンダーラインとか囲みがあるのには驚いた
(縦書きの本なのでアンダーラインではなく傍線というのだそうだが)

以前、中古本の楽しみの一つに、こうしたアンダーラインとか
コメントが入っているのを見つけて自分の感覚と比較するのが楽しい
とされたことを思い出した

最初のうちは突然現れる赤いボールペンでの傍線にショックを覚えたが
興味はどの部分に傍線をいれるか?という点に移っていった
でも、傍線のある部分は「なるほど」という部分ではあったが
自分では引かないだろうなという気持ちのほうが強かった
結局のところ、本の読み方というのは個人差が結構あるものだと実感した

ところで、再読した「天皇機関説事件」は気になる部分が前回とは違っていた
前回は右翼と言われる人々がゴネるようにケチを付けて
それが30年以上支持され、天皇自身も認めていた「天皇機関説」が
禁止される概念となって、その後の戦争に向かう過程が気になったが
今回気になったのは、なぜ彼らは天皇機関説をあれほど嫌ったのか?
という点だ

天皇機関説を攻撃した人々は、それのみを嫌ったのではなかった
むしろ、天皇機関説を生み出したと言える西欧的な思考法こそが
憎むべき対象だった

それは本の中にある以下の機関説反対派の主張で容易に想像できる

美濃部氏の根本思想は、第一が独立なる個人が単位であって、
その個人が相互に精神的又は物質的な交渉を有する生活を、
社会生活だとする個人主義思想、第二は、人間の意志は本来無制限に自由なもので、
法によって規律されるとする自由主義思想である。

この個人主義自由主義とが、一切の誤謬錯覚の根源であり、根本的な誤謬である。

天皇機関説問題の重要性は、1学者の愚論にあるのではなく、
同様の西洋思想に侵された時代思潮をいかにして一心し、
久しく(汚涜)された我が国体の尊厳を回復し、上下をして、
ことごとく天皇の国民としての本性に立ち変える立ち越えらせるべきかにある。


つまりは機関説反対派は、公平な対話のために必要とされた西欧的な技術としての
思考法やツール(個人主義)が気に食わないというだけのことだ
日本は古くから独自の良いものがあるので、それを蘇らそうとしているが
この国家神道を広げようとした理由は少し情けない

本にはその過程が紹介されている

国体思想の歴史認識(神武天皇を国の始まりとする、いわゆる皇国史観)に基づいて、
天皇の統治と国民の天皇崇敬は(日本と言う国が発祥した古代から途切れなく続く日本の伝統)であるように語られていました。
しかし実際には、それらが政府によって明確な形で(歴史的事実)と規定されたのは、19世紀後半の明治維新後のことでした。戊辰戦争で、江戸幕府が倒れて、伊藤博文らを指導者とする明治新政府ができた時、
彼らは自分たちが日本全体の統治者としての正当性を著しく欠いていることを自覚していました。
明治新政府の要職は、かつての長州藩と、薩摩藩の出身者によって独占されましたが、
薩長に2藩よる国政の支配を何の工夫もなく続ければ、やがて他の藩の人々から不満が噴出することが予想されました。
そこで明治新政府は、自分たちが正当な日本全土の統治者であると、権威づけるために、天皇という存在に着目しました。


考えすぎかもしれないが、このあたりは現在の保守(というより右翼)の拠り所になっている部分を鋭くついているが
彼らはきっと無視したり、気に留めたりしないだろう
自分たちの国の歴史をより良く思いたいがために津田左右吉の「古事記日本書紀の研究」という
事実に基づく冷静な研究や意見は天皇機関説と同様に危険視されることになった

そもそも現実的な思考法を持つ人は、外国と対等に付き合うには道具としての外国語のみならず
彼らの思考方法を身につける必要がある
美濃部達吉の立場からすれば以下の言い分を実践しただけに過ぎない

自国の君主を(神の子孫)とみなすような考え方は、西欧では既に(時代遅れの旧弊)として、
政治システムから排除されており、日本では天皇と「立憲主義」を論理的に成功させるための
新たな工夫が必要となったのです。(そこで生み出されたのが天皇機関説の考え方でした)


個人主義と言えば、国家の利益や社会の福利を考慮せず、各個人をして小我的な自利を主張することであるとか、
あるいは何の節制もなく、個人のわがままな行動を放任することであるとするような傾向があるけれども、
正当な意義における個人主義とは、各個人の人格を尊重し、個人としての生存の価値を認め、
国家及び社会の利益と調和できる範囲において、個人の精神的及び物質的に自由な活動を容認するという主義に他ならない。
個人の天与の才能を、その天分に応じて自由に発揮することを可能とし、
各個人をして人間に値する(人間らしい)生活を営ませる事は、実に個人主義の真髄と存するところである。

こうして過去の出来事を少し苦労して覗いてみると、自分にはそれは現在進行中の空気に
似ていると思えてならない
行き過ぎた個人主義(そもそも日本に本来の個人主義は身についただろうか)
行き過ぎた移民(移民を求めたのは日本の方ではなかったか
かつて日本はブラジルで移民する選択をした人が多かったことを覚えているだろうか)
敵を作り、それを激しく罵倒する(そうすることで気晴らしをしている)

自分には、最近の日本人は自信を失ってしまったように思えてならない
エコノミックアニマルと呼ばれた時代は、えげつなかったかもしれないが
生命力に溢れていた
こうして時の流れに沿って緩やかに落ちていくのは仕方ない必然なのだろうか

まとまらない話