何か変だな!と違和感を覚える出来事が続く
1つは東京のサウナ火災での夫婦の死亡の報道の圧倒的な多さと
テレビ局が全局同じ内容の報道をしていること
(大谷さんの報道も似たようなものだが)
もう一つは、安倍晋三氏の殺害についての検察側の山上被告への
検察側の評価について
サウナ火事の夫婦死亡がセンセーショナルな事件だったとしても
中には扱わなかったり別の事件の報道をする局があってもいいはずなのに
みんな横並びになっている
そしてそれが個人的には気持ち悪い
(まるで先の大戦の新聞の煽り方のようで)
かつて報道は他社を出し抜く戦いと思われていたが
今では多くが扱っていることを扱わないことへの不安が大きいようだ
出し抜く勇気(少数派であるかも知れないという不安)は
みんなと同じという安心感に勝てないのだろうか
それがテレビ局各社のメンタリティとすれば、テレビ局は自らの寿命を
縮めているように思えるのだが、それは考えすぎか
同じ時間に同じ角度からのニュースが多いのは
記者クラブと通信社依存のせいだと賢い生成AIは回答した
確かに記者クラブで情報収集し、それを報道するというのはコスパがいい
通信社に頼るもの責任を負わないで済むだけ気が楽かもしれない
でもそれで仕事が済むのなら、、高い給与をもらう価値がない(と思う)
労働生産性がドイツに負けたのは、製品づくりに対する向かい方の違いから
とする考え方がある
日本はコモディティとなった製品を安く作ることを優先した
(人件費の安いところで生産するとか、、時給を抑えるとかして)
一方ドイツはやすさで勝負する方法は取らなかった
高価でも値段にあった良いもの、独自性のあるものを作るようにした
(この独自性、高付加価値への考え方は、国から補助金をもらう申請書
には必須の条件だが)
結局のところ、日本人の横並びで安心する心理的な傾向は
我が道を行く、、といった求められるメンタリティとは
だいぶ離れているようだ
つまりは報道の社会も日本人的なメンタリティの表れが見られる
ということなのだろうか
違和感を覚えた2つ目、山上被告の報道からは
検察は安倍晋三氏の殺害に至った合理的な理由がわからないとか
統一教会憎しからの飛躍があるとしていたが
裁判の証言では、安倍氏が奈良で街頭演説を行うと山上被告が知った際に
「運命的なことを感じた」とされているが
そうした心理的な思い込みは人には十分存在しうる傾向だと思う
それは心理的に合理的とさえ言えるのではないだろうか
それはユングの共時性とか偶然一致みたいなもので
この心の動きは理屈ではわかりにくいとしても、
自分と会話をすることが多いひとには比較的ある傾向と思う
のではないだろうか
そもそも人はいつも合理的な行動をするという前提自体が
間違っていると言うか、視野が狭すぎるのではないだろうか
人は何故か他人が理解できない行動をすることがある
その理解できない行動を理解するには
当事者の立場にたって「想像するしかない」のではないだろうか
この想像するとか洞察するということは
例え主観的なものであったとしても「そういうことはあるかも知れない」
と思い浮かべることは、人が人を理解しようとするときには必要だと思う
つまりは人は全人格的な立場に立って物事を処理しなければならない
人たちがいるということで、それはある時は検察であったり
ある時は報道関係の人間であったりするのだが
こうした専門職の人たちはその世界にどっぷり浸かってしまっていると
なかなかそこからの視点とか視野からは抜け出せないのかも知れない
だからこそ教養というか的確な価値判断をする全人格的な何か必要だと思う
相変わらずオチのない、まとまらない話