市議会議員の中には、あまりにもやる気がなくて
一般質問もシドロモドロの状態でみっともなかった人物がいたので
彼が引き続き立候補した時に、その時知った「落選運動」を
考えたことがあった
それを知った時には、そんな運動もあるのか?
と驚いたが、結局それは実行しなかった
調べると、ルールの中に氏名等の表示義務があり
(それは当然と思われるが)小さな田舎で個人名を掲げて
争いごとにつながることをするには抵抗感があったからだ
その他にも、当たり前のことだが虚偽事項の公表禁止があった
彼にはちょいと良からぬ噂もあったが、それが本当かどうかは
確かめようがなかった
ルールは前提として常識的な倫理的を要求しているし
それを守らねばならないことには抵抗感はなかった
ところが、週刊文春の報道で賑やかしている中傷動画の事件
これには1つの事実がある
それはあの選挙期間には以下の様な投稿の傾向が存在したこと

何度も繰り返すが、あの時、違和感を覚えたのは驚異的な動画の再生回数
ネガティブなものはアップされてから直ぐにとんでもない回数になった
こんなに直ぐに人は反応するのだろうか?
と不思議でならなかった
正直なところ今回の文春の報道で、そうだったのか!
と思ったのは偽らざる気持ちだ
文春では秘書と外注先のメールがいくつか公表している
(それをどうやって手に入れたのか、これも不思議だが)
現時点では誰が行ったのか(指示の有無)は曖昧だとしても
誰が得をしたのかははっきり分かる
話は跳ぶが、「ナチス前夜」という本では
暴力が徐々に常態化していった様子が紹介されていた
(ナチスSAと共産党の暴力が)
つまり、こうした倫理観に頼っていた非暴力へのブレーキ作用は
いとも簡単に破壊されるということだ
そしてこれに似たことが、今のこの国でも起きているのではないか
と不安を覚える
というより最近の不安の正体は、まさにこれのような気さえする
不思議な支持率、分断による罵倒しあうSNS
長いものにはまかれろを実践するメディア
「従うということは、支持しているということ」
「少数者の支配は、無関心層の存在によって成り立っている」
というハンナ・アーレントの言葉が、今痛切に響く